#005名前の力
僕は戸籍に登録された親から授かった名前(本名)と、その名前と全く関係ないニックネームがある。
高校以降の友人の多くは僕のことをニックネームで呼ぶ。本名を知らない友人がいるくらいだ。
そんな友人たちでも僕の苗字だけは知ってくれている場合が多い。
この話では苗字の話、人の名前の話をメインに人生でずっと付き合いのある色んな「名前」のことを改めて考えたい。
名前は想像以上の力を持っている。
名前には大まかに2つの性質がある。
ひとつは個人を識別するIDのような性質だ。
日本の人の名前は苗字+「名前」だ。下の名前にはそれを表す名詞すらない。
一方、英語はミドルネームは人から引き継ぐなど、自分の意思で付けられる部分もある。名前のパーツが増えるので同姓同名、名前被りの人が少なくなる。
ID的な性質で言うと、英語名の方が強いかもしれない。*1
もうひとつは、アイデンティティ(性格や考え方、感じ方)をまとめる箱のような性質だ。*2
連続テレビ小説『ごちそうさん』の第6週の第32話は西門家に嫁いだめ以子に対して、義姉からこんなセリフがある
「嫁に入るという事は、家風に染まるいうことです。」
夫婦別姓は認められるべきだという声も大きくなっているこの時代にはとても前時代的に感じる発言だ。
しかし、この主張は嫁入りした女性への押し付けや嫌がらせとすれば反論が起きるものの、内容だけ見るとなるほどその通りだと感じるのだ。
魔法の公式でも述べた通り、日本語は姓から名を名乗り、呼称も姓を用いることが多い。
「〇〇さん、〇〇くん」と誰かが誰かを呼ぶ声を思い出してみてほしい。
〇〇に入るのは苗字なことが多いだろう。
姓は家族というひと単位の集団の性質を代々受け継いできたアイデンティティそのものだ。
その姓で呼ばれる人は、自然とその姓の持つ性質を獲得していく。
また逆に、その人のそれまでの個性がその姓に溶け込んでいく。
この繰り返しが家族をひとつにまとめていく。そんな気がする。
このように、名前には2つの性質がある。
名前をこの2つに分けて考えるようになったのには、理由がある。
それはコミュニケーションの齟齬を無くしたいという想いだ。
人は話すとき、何かの名前(名詞)を使わないことはないだろう。
例えば、最近入ったばかりの新人である佐藤くんについて同僚が
「佐藤って2つ上の田中さんに似てるよな〜」
と話していたとする。
それを聞いた自分は、
田中さんに似てるのか...ってことは、優しくてちょっとドジなところもある良い感じの人なのかな?
と考えた。
しかし同僚は、
はぁ、仕事できないことはないけどヘマが多くて結局仕事が増える厄介な奴が入ってきたな...
と思っているかもしれない。
会話の中では「例え」がよく使われる。
ただそれは、便利だがときに凶器になりうる。
実はこの名前のトラップは数学の研究中にハッとしたものである。
数学の研究というのは、現実に見えるものは何もない。
木からリンゴが落ちるようなことはないのだ。
ならどうやって研究するのかというと、頭の中の知識のプールからエイっと「何か」を引っ張り出してくるのである。その「何か」を表す記号と名前を付けてやる。そうしてこの世界に固定化した「何か」に関して条件やらなんやらを課して、計算してみるのだ。
その結果がなんとなく価値がありそうで、体系的にまとまりそうなとき、頭から引っ張り出された「何か」はようやく「理論」の一部に組み込まれていく。
数学の研究は大まかにこういうことをしている。
この「何か」に名前をつけるところが厄介なのだ。
だいたいAとかBとかこの世にある文字を充てがう。
しかし、アルファベットの数は有限だ。26個しかない。
以前の研究でAを使っていたのに、別の「何か」を表すためにまたAを使う場面がある。
そんなとき、以前のAの性質を自然に計算中に使ってしまうのだ。
これは佐藤くんが田中さんに似ているからといって、田中さんと同じものが好きだと考えるのと同じようなことだと思う。
田中さんがカレー好きだからと言って、佐藤くんもカレーが好きとは限らない。
もうひとつ注意したい名前の話がある。
それは専門用語である。
専門用語は名前の後者の意味、性質の情報を表す「箱」の役割を最大限活用している。
専門用語ばかりで話すと、大抵の場合煙たがられる。
それは専門用語には大量の情報が詰め込まれているからだ。
情報の受け手は、
話を聞く→理解する
のつもりで聞いているのに、
話を聞く→専門用語内の情報を取り出す→理解する
と1プロセス多くなるからストレスになる。
このように専門用語は伝える場合はデメリットになることも多いが、思考の場面では高速に情報処理できるのでメリットも大きい。
専門家同士の会話は一般の会話の数倍の情報交換をしているのだ。
僕はこういうところに、人間のすごいコミュニケーションの力を感じる。
最後に日本ならではの元号について。
2019年4月1日、新元号「令和」が発表された。
元号はもう良いだろうとか、ややこしいとかいう声も聞かれるが、それは時間のID的な面での話だ。
入学式や卒業式、入社式など人々は式典を行い、人生の区切りを実感する。
時間も1年や1ヶ月、1週間のように区切って平日や休日、大晦日や元旦のように日毎の性質を付けている。
時間に性質をつけないと人は大抵ダレてしまう。
だからこそ、この元号という制度はうまく活用するほかないと思う。
令和は政府が言葉の意味を考えてつけた名前である。
令和には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております。
東洋経済ONLINE「安倍首相、談話で『令和』に込められた意味説明」掲載の動画よりhttps://toyokeizai.net/articles/-/274265
しかし、この元号で語られる時間を作っていくのは、この時間に日本で生きている私たち自身のほかはない。
これは苗字の話と似ている。
令和という名前が、時間をまとめ上げ、人の性質も営みも吸収していく。
逆に令和という時間が、人々の行動に影響を及ぼしていく。
この文化的な時間の区切りをうまく使えば、日本はうまく舵きりできると思う。
僕も令和に向けて、自分の身の振り方を再度検討したいところだ。
良い日曜日を。