月曜に備えて

噛みしめた結果です.

#00β しばらくのお休み

所用でしばらく休むことにします。

 

組織や人間、価値と満足の相違、分解の思考と西洋思考、不可分の思考と東洋思想、切腹文化と責任(共産主義と資本主義のモチベーション設計)など自分の中でまとめておきたい内容はたくさんあるのですが、少し語彙が足りないので仕入れ期に入ろうかと思います。

 

一貫して物を考える際は、その考えることから考える方が面白いということはこのブログのテーマとしていきたいところです。

最近のよくいう意識高い「系」の人間が全ての正義のように使う「問題の因数分解」で分解して考えることのできる問題は集合論的に考えた場合、要素を取り逃がしています。

つまり問題という全体集合の要素をカバーできていません。その理由は簡単で問題の中にも「素数」というやつがいるからです。そいつはそのまま処理しないといけません。既知の問題に分解することなどできないのです。

 

物を作ることも西洋的な手法が現在メインになっているため、部品部品で物を見ることに慣れてしまっています。これは先述の因数分解問題と似た考えだと理解できます。しかし例えばその理解に慣れすぎて組織を部署ごとという区切りばかりで考えたり、優秀な人間を1つの部品のようにもってきたら強くなるかのように考えるのは正しいのでしょうか?僕はここに疑問符を投げかけたいと思います。

 

考える方法を一つしか持たず、しかも1つしか持っていないことに気づいていない場合は問題が起こってもそこで止まってしまいます。そこで人間はどうなるか。癇癪を起こします。怒るでしょう。知性で、言語で理解する範囲を超えたのでそのフラストレーションを意味のない奇声や暴力で発散させようとします。

 

森岡毅さんのマーケティングの話は今あげた組織の問題に対して解決につながる視点を与えてくれます。ただ僕はそれを別の思考方法が自分の中に入ってきた感覚として処理したいのです。僕は森岡さんの考えは東洋的な思想に近いだろうと考えています。

 

結局何が言いたいかというと、考えるときは考えるということから考えるのが面白いというところに戻ってきます。そしてお休みのあとはこのようなテーマでまた話を書いていこうということです。

 

 

アイガカリ

恋は合わせ鏡、愛は横並びの大きな鏡。

 

これを何処かで聞いたのか、自分が思いついたのかはもう覚えていない。

恋はお互いを見ている。互いを映し合い、相手との差異から日常より深い自己を認識するする。

愛は同じ方向を向いている。共に映すのは自分たち以外の世の中だ。隣の家族や自分たちの子供、周りを映して自分たちを育てていく。

 

多くの関係は恋から始まる。

月日が経って恋が愛に変わる。

その瞬間を愛掛かりと呼んでいる。

 

数学を日本でする人のシャレみたいなものになる。

愛掛かりは、i掛かり。

虚数をかけるということ。

 

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恋であるべきものは、恋がRealにいる。

恋した度合いを数字で表して10とすると、iをかければ10iになる。

10はRealにいるけど10iは虚数の世界Imaginaryにいる。

愛にかかって現実から虚の世界に移ってしまった。

 

逆に愛であるべきものは恋の状態の時、違和感があるかもしれない。

それも当然、愛であるべきものは恋の状態が虚の世界にいる。

RealにいるものにiをかけたらImaginaryに行った。

つまり虚のImaginaryにいるものにiをかけると、現実(Real)に来る。

 

これはギャグだけど、ちょっと本当の恋愛に似たものを感じる。

長く付き合ってそれが楽しかったけど、結婚みたいなことを考えるとなんか違う。

それはきっと恋がホンモノの関係だ。

 

逆に遊ぶように付き合うのはなんだか辛いけど、ずっと一緒にいたい。

2人で同じ方向を向いて生きていきたい。

それはきっと愛がホンモノだ。

 

でも恋も愛もどっちも素晴らしい。

儚い恋も、情熱的な恋も、控えめの愛も、いろんな人に学んできた。

関係の変化で別れてしまう人が辛くないように、シャレのような変な理屈を書いたに過ぎない。

 

別れと出会いの季節に、ちょっと辛くも前向きなたくさんの知り合いの別れを見て、相手を想う知り合いたちの決断に心動かされた。

今週も月曜日から、また頑張ろうと思った。

あの人のために書く

文章を書こうと思うとき、大抵は誰かの顔が思い浮かんでいる。

あの人の話面白かったな。

あの人がこの話聞いたら面白いって思ってくれないかな。

 

僕は自分のことを臆病だと思う。

人付き合いもその臆病がいつも邪魔をしてきた。

初めての人と仲良くなれないだけじゃない、仲良くなった人との関係に臆病が厄介な罠を仕掛ける。

 

自分の持っているものを失うのは、なにかを得られないより苦しいものだ。

後悔は何かを得られなかったから辛いんじゃなく、何かを得る機会を失ったことに気づくから辛いのだ。

僕は大切な友人を作って失うのが怖かった。

 

そんな僕でも、これまでの人生で自分のペースで生きていても定期的に連絡をくれる人たちがいる。かけがえのないものだと思う。そんな友人たちに、そしてこれから友人になってくれる人たちに何か自分がお返しできるものはなんだろうと思う。

 

それは特別じゃなくていいのかもしれない。

食事をした日、プレゼントをもらった日、その日のありがとうの後にまたありがとうを言う。あなたの心遣いが本当にこんな風に嬉しかったよと伝える。自分がされたら嬉しいことだと思う。

 

僕はたくさん考えてしまう。

辛いことや苦しいこともたくさん考えてなんとか打開してきた。

お礼を工夫するのは気恥ずかしいながらやってみたいけれど、すぐにできることじゃない。

だから自分の思うちょっと価値あることを少しずつ考えられたらいいなと思う。

その一つをこの文章たちに込めて。

 

たくさんの人の顔を思い浮かべながら。

 

 

#00α お休み

今週はお休み。

 

たまにはちゃんと休まないと死んでしまう。

ひとつ友人の面白い新発見を記して今日はおしまいにする。

 

当サイトはサザエさん症候群という言葉もあるように休み明けの月曜日からをなんとか乗り越えるべく、辛く感じる部分を少し思考の転換を行うことで解消しようという意味を込めて「月曜日に備えて」命名した。

 

ただ、友人の発見はこの命名を少し考えないといけないと思わされるものだった。

 

たぶん火曜って1週間の中で一番憂鬱な曜日 

 

衝撃の一文。まじかこれは。

その理由は以下の通り。

 

月曜は日曜の楽しい記憶でなんとか乗りきれるけど火曜日は、火曜の朝起きた時にまだ4回も働かなあかんのかと思うし日曜の楽しい記憶が薄れているから 

 

日曜日は家で回復をしようという人間からは思いつかない発想だった。

日曜日にしこたま遊んで楽しい思いを作り、そのまま眠る。

翌日は楽しかったなぁという思いが残留しているので仕事に行くのが億劫ではない。

 

しかし、一度仕事をすればもう頭も仕事モードである。

楽しい気持ちより「仕事しなければ」が勝つ。

そして迎える火曜日は完全仕事モードでしかも後4日もその状態が続く...

 

仕事に行くハードル、朝起きる気持ちの重さを考えるとなるほど理論である。

そんな友人、毎週金曜日は楽しくて仕方ないらしい。

週で辛いのは水曜日〜木曜日だけやん、すげぇ。

 

メリハリがあって良い戦略かと思った次第でした。

 

では、良い日曜日を。

#010 抽象的な教訓(これまでのまとめ)

数式が書かれた黒板

はじめに

小学生の頃、テレビドラマ「ガリレオ」が放送され、夢中で見ていた。

不可解なことに科学で説明をつけ、解説していく様に強く憧れた。

もちろん、福山雅治がかっこよかったからでもある。

 

また同時期、「ホンマでっか!?TV」も毎週の楽しみだった。

あるテーマに関して生物学や社会学、心理学や脳科学の先生の見解を聞くのは本当に楽しく、裏紙で自作したノートに面白い内容はメモしていた。

ちなみにそのノートの名前は「ガリレオノート」だ、憧れすぎ。

 

中学生の頃は心理学や脳科学の本を読み漁った。

当時太っていた僕は傷つく言葉を受けることも多く、何故こんなことを言うのだろうと理性で納得しないとやっていけなかった。

もちろん、喧嘩もたくさんした。

 

そんなバックグラウンドがあり、がっつり理系の世界にいる今も心理学や行動経済学といった現状の行動分析から人間の行動や思考に関わる学問、進化心理学や遺伝行動学、歴史などの歴史的経緯から人間の行動や思考に関わる学問が大好きである。

 

そして日常生活の中にもこれらの興味で得た視点が生きている。

すると学んだ内容で説明できるなと思うこともあれば、書いてあった内容は嘘だなと思うこともある。

そんな中で自分として最もらしい答えが出たものがここまで書いてきたものになる。

 

ただ、自分の中でもふわふわしていた概念ばかりだったのでどうまとめたらいいかは非常に困っていた。

そこで物語調ならちょっとはまとまりがつくんじゃないかと考えて、拙い文章力で毎週まとめてきた。

 

今回はこれまで書いた内容に関してテーマ的な言葉をまとめる。

とっても抽象的なので各回は少し具体例をかいた。

では早速#001から。

 

#001 パッチワーク仮説

sunday-break.hatenablog.com

 

<Keywords>分人、性質の分裂、集合体自己について

 

個人というひとかたまりの人間的な思想は西欧の文化が元になっている、らしい。

こういう論文もあるので多分それは正しい。

https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=520&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=41

ただ、地理的制約などから日本はその他大陸の国々とは少し違う進化をしている可能性が大きい。論理関係が明確な英語などの言語と、何が濁しながらでもコンテクストで伝えるような日本語との違いからも同様の推察ができる。

 

違う進化をしているなら個人みたいな捉え方も違っていいじゃないの、ということで個人的にぴったり来るなと思ったのがこのパッチワーク仮説。

本文にあるようにこの感覚はペルソナマーケティングからヒントを得ていて、何かの拍子で分人って概念があることを知った時は「あっこれだ!」と感動した。

 

#002 スクリーンを変えてみる

sunday-break.hatenablog.com

 

<Keywords>視点の転換、捉え直し、既知の未知化

 

#001のような事故の捉え方の転換みたいなことは実践しようとするとちょっとエネルギーがいる。それは無意識に自分の中にあった前提みたいなものを壊さないといけないからだと思う。過去の自分と矛盾するのって気持ち悪いみたいな感覚もある。

 

この転換の捉え方の感覚は遥か昔に外山滋比古大先生の名著『思考の整理学』の中で触れた「メタ」の概念から得ている。この本を読んだのは中学生の頃か高校生になっていたか忘れたけど、色々と衝撃を受けた。

 

メタ(meta)は「高次の」とか「超」とかいう意味だ。自分はこう考えているな、とかを考えることはメタ的に自己を認知していることになる。ちなみに酔っ払っている時にこのメタ思考を発動すると恥ずかしいことになるのでやめておくことをお勧めする。

 

まとめると#002はあるきっかけで自分の行為をメタ認知して、それを転換すること、さらにはメタ認知により自分の既知感を顧みて未知を認める重要性を書いた。

 

#003 魔法の公式

sunday-break.hatenablog.com

 

<Keywords>演繹思考の癖、帰納思考の導入、スピードへの対応

 

僕ば長男でとても慎重な父親に育てられたので、自分自身もとっても慎重で真面目に育った。勉強を真面目にして、勉強のために「自分から」遊びを断ることもあったほどに真面目だ。

 

そんな風にして入った高校でも受験勉強を必死に頑張った。ただ、残念なことにそれは「受験」勉強だった。絶対正解があって、正解にたどり着くためのルール(公式)があった。

 

それではいけないと気づいたのは恥ずかしながら最近のことになる。そもそも全てに対しての正解なんてものは存在しない。正解はある対象にとって正解かどうか定義される。つまり「これを抑えたら大丈夫」なんていう魔法の公式はない。

 

この厄介な勘違いを助長するものに日本語と日本文化もあると考えた。日本語と日本文化は演繹的な思考に合うようにできている。一方英語は大抵帰納的で魔法の公式を求めず、それを個々の事象から作ろうとする。

 

#004 追い求む先に何があるのか

sunday-break.hatenablog.com

 

<Keywords>常識の作られ方、モラルやルールの正体、自己実現とは

 

何か目標を持って遂げた時に本当はそれが目標じゃなかったと気づく。

こんな現象はいろんな人が経験したことがあると思う。

 

先ほども触れたメタ認知を活用して、自分が従ってるルールを紐解いてみると何故これに従ってるんだ?と分からないものが出てくる。

 

#004はこのような何故?があることを目指すものを例にとって考え、その何故までを明らかにしようというものだった。

 

 

#005 名前の力 

sunday-break.hatenablog.com

 

<Keywords>思考と言語、言葉の力、言語間の思考差、言語と自己定義の再帰性

 

言語の登場の歴史は少し学んだことがあるけど面白い。

歴史を見ていると言語と思考の相関は無視できないほどに大きい。

究極的には世界は言語でできている。だからこそ名前は非常に重要になる。

 

名前でものを定義すると、そのものが逆に名前に定義されるようなことが起こる。

役者さんが役の性格を自分に取り入れてしまうような現象もこの言語の再帰性によるものだ。

 

#006 幸せになりたい

sunday-break.hatenablog.com

 

<Keywords>事象の両面性、人間感覚の非線形性、感覚時間極限有限収束、時間相対感覚

 

大抵のことは両極端な2面を持つ。

良いことと思っていることは、あるとき非常に悪いものになる。

 

これは自分の捉え方次第にもなる。

そしてその捉える自分はどんな知覚の特性を持っているのか?これを考えたのが#006だった。

 

感覚は直感で創造するものとはちょっと違うのがミソだ。

 

#007 サイコロの振りどき 

sunday-break.hatenablog.com

 

<Keywords>因果律に支配された思考、パッチワーク化した自分の利用、運の効用

 

僕たちの思考は基本的に因果に支配される。

この事実を利用すれば、自分の目指すところに向かって自分の意思や考えを塗り替えることができる。

 

#004で見つけた自分の目標に向かう時、自分の中の常識のせいでその目標がひどく難しいものになることがある。しかし、因果を利用して自分の中で正当な物語を作れば常識の書き換えは可能になる。この物語は他人に説明するためにも使える。

 

そして運も同様に使い方に注意である。

 

#008 分かる

sunday-break.hatenablog.com

 

<Keywords>決める理解決めない思考、ポジションと偏向、思考と具現、アナロジーの力、シナジー

 

何かを決めることは物事が終わってスッキリするが、思考はそこで終わってしまう恐れがある。考えだすと物事の両面性から中空に浮いたような決めきれない感覚になる。

 

どこかにポジションを取ることはある種の偏向を受け入れたということだ。

それは正しいかどうかはわからない。だから自らの決定は偏向であると自覚しないといけない。その前提を持った上でする議論というのは最も理想だと思う。

 

また、何かを思考することは得意な人もそれを具現化して実行するのは得意でないことも多い。思考と実行の乖離を頭に置いておくことで人間関係のイザコザの何割かは解決するんじゃないだろうかと思う。

 

思考と具体化を専門性を持って行うと、別の領域でも同じようにできることが増えてくる。

これがアナロジーの力だ。別領域の力を使って今の領域が深まることもある。これはシナジーである。

 

つまるところ、初めは偏向を受け入れてそこを深め、さらにアナロジーシナジーを受け入れれば偏向は初めほど強くなくなるだろうという話になる。

なんだか面白い現象だなぁということでこのトピックでまとめてみた。

 

#009 分からない

sunday-break.hatenablog.com

 

<Keywords>未だ説明不能な真理(78:22、働きアリの法則)、科学の限界、無知の知

 

色々と説明を書いてきたけど、結局わからんこともあるぜというのが最後。

なんなら説明もそれで現状納得できるから正しかろうというだけのもんである。

 

わかったようなもんも結局曖昧やし、わからんこともあるし、じゃあどうするのというと無知の知の姿勢でいると良いんじゃない?というのが#009であった。

ただ、無知の知はとっても難しい。#002でも触れたメタとかそういうのが大事になる。

 

仕事とかだと何をどうするか自分で説明できることが大事なので、そこにも結局無知の知っているよねみたいなことが現状の自分のまとめになってる。

 

まとめ

以上これまでのまとめ。

各話は絡み合っている。頭でふわふわしてた概念を無理やりえいや、と切り分けたのでしょうがない。

以降の#011からはまた抽象的なことが頭から切り離せたらそれも書くけど、基本的には少し具体的にしていこうかと思う。

 

人間関係、友達関係の苦しさみたいなものを解釈の力で少しでも減らそうみたいなニュアンスにしたい。ただ、ちょっとドロドロしたことがテーマになったりもするので鬱にならないように頑張ろうと思う。直視し、説明し、解釈を変える。このスタンスで来週からもよろしくお願いします。

 

良い日曜日を。

#009 分からない

空と空気

 

空気を構成する物質の比率を知っているだろうか?

細かい値は忘れているかもしれないがおおよそ窒素が8割、酸素が2割と覚えている。

 

ある正方形に内接する円を描いたとき、円の面積と元の正方形の残りの部分の面積の比を知っているだろうか?

電卓を叩いてみればわかるがこれもおおよそ円の面積が8割で残りの部分が2割となる。

 

赤ん坊の体の水分量を知っているだろうか?

これは個人差があるがやはり水分は約8割で残り2割が他の物質だ。

 

これらの値は何か理由があってこうなっているわけではない。

観察の結果、この比率が決まっている。*1

つまりこの綺麗な事実は理由がありそうなのに、実際はないというしかない。

内接円の比率

理由がないというのは実は嘘である。

理由は付けようと思えば付けることができる。

ただし、科学的な理由付けはおそらく今の所なされていない。

 

今回の話題は「分からない」だ。

 

産業革命前後から急激に発達した科学は、ついに人間のコピーや人間に成り代わる知能の誕生をチラつかせるようになった。

 

コンピュータで作られたグラフィックが現実世界と混じり合ったり、逆に人間がグラフィックの皮を被って活動したりする様子も「未来」がそこまで来たようだ。

 

「未来」には全てが分かっている気がする。

人間とはなんなのか。それが分かるからAIができる気がする。この世界の摂理が完全に分かるから人や動物を造れる気がする。

 

でも、この感覚は嘘と言わざるを得ない。

かの有名なソクラテスは「無知の知」を基本姿勢とした。

私たちは気をぬくと己の無知を忘れて恥をさらしてしまう。

時には自分のさらした恥に気付きさえしない。

無知の知



私たちはまだ何も分かっていない。

最初の例と似たものをもう少し紹介しよう。

厳然と再現されるその現象は未だ納得のいく説明がなされていない。

 

アリのなかには働きアリ、というのがいることはよく知られたことと思う。

ではこの働きアリは1つのアリの集団の中で何割ほどだろうか?

 

これも不思議で2割ほどだ。

また2割というマジックナンバーが出る。

しかし残りの8割は全部普通のアリかというと実はそうではない。

 

実は残りに関しても(かなりアバウトだが)更に8:2の割合で普通のアリとサボるアリに分かれる。

つまり、アリ集団の中で働きアリ:普通のアリ:サボりアリは2:6:2の比率になる。

 

これは働きアリの法則と呼ばれる。

 

織田信長は幼少期、アリの観察をしてこの事実に気づいたらしい。

そして彼はその後の人生で従えた人間たちも同じ比率で動くことに気がついた。

蟻



どれだけ有能でも、チームを組み替えれば無能になることがある。例えば100人の集団で優秀な20人でチームを組む。優秀な20人の集まりだから最強チームかと思いきや、4人ほどは堕落する。

 

どれだけ例を挙げられても分からない場合には、高校なんかを思い浮かべると自分の体験に当てはまるのではないだろうか。

 

受験で選別され、選りすぐりが集まるはずの進学校に進んだのに明らかに優秀な人もいれば信じられないほどアホ、に感じてしまう人もいるはずだ。*2

 

思い出せば同じような法則が当てはまる事象は人生で何回も経験している。

 

もうひとつ似たような法則としてコンサルタント御用達のパレートの法則を紹介する。

これは働きアリの法則の前半部分だけを抜き出したような法則だ。

 

商売に関して言うと、顧客のうち上位2割の優良顧客が売上の8割を占めているという法則だ。社会の富の8割を人口の上位2割のが占めているみたいなことも言われたりする。

 

このような話はあたかも正しい前提のようにして話が進められることがあるが、パレートの法則もただの「経験則」に過ぎない。

 

ただこれらの法則は経験則にも関わらず、厳然と存在していると認めざるを得ない状況が多々ある。

 

 

 

不思議

 

世界はまだまだ不思議で満ちている。

少し勉強し始めた頃は全てがわかるような気持ちになるかもしれない。少なくとも僕はなった時期があった。

ただ、勉強し学べば学ぶほどあれだけ堅牢に見えていた科学の脆さを感じるのだ。

 

悲しいことに、この全てが分かる気がするという錯覚にも8割というマジックナンバーが現れる。全てが分かる気がするとき、というのは例えばテストで8割が取れ始めるくらいのレベルの時だ。

 

このレベルは周囲からも賢いと言われたりする。そして自分は全て分かるのでは?と錯覚してしまうのだ。

ただし、8割というのは大抵の人がしっかりと「それなりに」努力すればたどり着けるラインなのだ。

 

8割以降に向かうには、8割に向かうまでの努力と同量またはそれ以上の努力が必要になる。

 

働きアリの法則を思い出して欲しい、優秀な者だけで作ったはずの集団でも振り分けは発生した。なぜが自然に振り分けられる上位2割になるためには自然の力に勝ち切る程の努力が必要だ。

 

 

自己のペルソナ

 

無知を知ること、その上で己を見つめて何かに励むこと。

この姿勢は無為な争いを生まないために必要だと思う。相手どころか自分のことも完全に知らない私たちは、相手を貶める前に相手を考え、それを踏まえてまた自分を見つめ直すことしかできない。

 

そうしていると自然に怒ることは少なくなり、心に余裕ができてくる。

 

プロの語源はプロフェス(宣言)だという。

プロの第一歩は自分はこれをこの程度できるとハッキリ言えることだ。

これは自分の不足を知らないと正確にできない。

 

プロはどこか余裕があるな、と感じることがよくある。それはきっと己の無知を知り、己の道に励んでいるのだろう。

 

世の中には分からないことがまだたくさんある。今は信じるしかできないことがある。できることは、それをどういう根拠で信じているのか自分なりに説明することだけなのだ。

 

 

良い日曜日を。

*1:日本マクドナルドの創業者故藤田田氏によればこれらは78:22という変えがたい宇宙の法則に支配されている。

*2:行動遺伝学や心理学的な観点から集団における人間の振る舞いの研究もなされているが、結局この働きアリの法則が存在することに変わりはない。

同じ行動で別のものを感じる

GW、気付けば実家漬けになっている。

人との約束をしないようにしたので少し遠い一人暮らしに帰る理由もないのだ。

 

地元の友と飲みに行ったりはする。

人生これからどうするかなんて日本酒を呷りながら話していると、よっぽど歳をとったように感じる。

幸せな将来とか、夢とかそんなことを聞く。

 

仕事の話をすると「昇進」とか「年収」とか「仕事内容」の話をよく聞く。

でも個人的に一番知りたいのは「人間」とそれに関わる「システム」である。

知りたい理由は簡単で、それが一番幸せみたいなものに関わると思うからだ。

 

利己的なことと利他的なことは成功と結びつけてよく語られる。

利己的な性質はある面では仕事ができるように見え、強いリーダー的感覚を他人に覚えさせる。一方で、利他的な性質は下手をすると良いように遣われるという感覚やなんとなく立場が弱い人、力無い人を連想させる。

 

しかし、逆も然り。

利己的な面が弱さの露呈に感じられることも、利他的な面があまりある力の賜物だと感じられることもある。今は初めに利己を良く利他を悪く、後からその逆もあると書いたがどちらが一般的であるとかはこの文脈で定義する気は無い。

 

利己的な人は他人を貶めたとしても自分が得をする行動をとる。

行いには「良いこと」「悪いこと」「皆がやっていること」の三つがある

エリック・バーカー『残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する』より

皆が利己的な行動をとれば、それは幸せを生み出すシステム自体の破壊につながる。

 

利己的なことを突き詰めた国はモルドバだという。

幸福度ランキングではワーストランクに位置するらしい。

個人個人は優しい人も利他的な人ももちろんいると思う。

しかし利己化が進みすぎると国レベルで幸福を生み出すシステムが破壊されてしまうということなのかもしれない。

 

***

 

一人暮らしでご飯を食べる。

フライパンや鍋などの調理具、盛り付けた皿、水を入れたコップに箸やスプーン。

シンクに積み重なったそれらを放置するわけにもいかず洗う。つらい。

 

今日は実家で祖母と母が畑で農作業をしているのを自室から見た。

その作業をする前、一緒にコーヒーを飲んでいたのでもしやと思って台所に向かうとシンクにはカップがつけてあった。

 

農作業をして、洗い物をして、掃除をして、ご飯を作って。

それを思うとちょっとしたこのカップを洗う手間くらい減らそうと思った。

洗い物をしているのは一緒のことなのに、一人暮らしで洗い物をするときとは全く逆の気持ちになった。

 

 

先ほど引用した本によると「成功」の分布で最下位にいる人は利他的なgiverだという。

やっぱり利他的なのは良いように遣われるのがオチなのか、というとそうでは無い。

最も成功している人もまた利他的なgiverなのだ。

 

この種の話は聞いてるだけではああそうかと思うだけ、人によってはこんな話を信じて自分に当てはまってるかなぁなんて考えてバカじゃ無いのかと見下す。

 

でもちょっとは人のためになるかな、という想いを持てること、そういった想いに意味があると信じられることが結果的に成功や幸せと呼べるものなんじゃないかと、少なくとも僕自身はそう信じている。