#003魔法の公式
中学生に数学を教えていたある日、ある言葉が多いことに気がついた。
「どうして?」
逆に少ない言葉があった。
「これなに?」
このことに気付いたのは現在87歳の日本を代表する数学者のひとり、広中平祐先生の『考えること・学ぶこと』という本を思い出したからだ。
日本人学生はWhyという真理を尋ねる質問をする。一方、留学してアメリカに行くとWhatという事実を尋ねる質問をよく聞く。
という内容が書いてあった。読んだ当時、数学の研究で頭を抱えていたが、この文章がブレイクスルーに繋がった。
自分もまた真理を問う質問を繰り返していたことに気付いたのである。
学生時代の数学や理科を思い出して欲しい。「公式」という訳の分からないものをたくさん覚えてテストに挑んだあの頃だ。
良い点数を取ることが必要と聞かされ、あまりに悪いとペナルティもあるテストは、学生時代の勉強の全てとなりやすい。
そのテストはいわゆる公式を含めた「細かく理屈は知らないが、なにやら正しいもの」をたくさん頭に詰め込むほど良くできる。
これを少なくとも10年近く続けると、とある思考の「型」が出来上がる。
“細かくは知らないけどひとつ正しいこと(真理)があって、それを当てはめて物事を進めればたったひとつの正解にたどり着く。”
これが「魔法の公式」だ。
魔法の公式を分解すると2つの仮定の含まれた考え方であることがわかる。
一つ目は、詳細不明の不思議な真理があるという仮定。
もう一つは、ひとつの正解があるという仮定だ。
つまり、同じような教育を受けた多くの人の思考のクセは、この仮定を当たり前としていることだと言える。
魔法の公式が日本で成り立つ理由のひとつは先述の通りだが、もうひとつ日本ならではの理由をつけることができる。
日本は一民族一国家一言語一宗教で成り立ってきた島国である。これは国内の人間の前提(常識ともいう)に関して共通する部分が多いということだ。
さらに日本語と英語を比較すると面白いことが見えてくる。
例えば名前。
日本語は苗字を初めに書いて名前を書く。
「私は田中家に属します太郎と申します。」
と名乗る。
英語は名前から苗字、ミドルネームがある場合は名前→ミドルネーム→苗字となる。
「私はジョンです。スミス家に属しています。」
と名乗る。
この事実は人を呼ぶときに何で呼ぶかということにも直結している。
日本は苗字呼びが一般的で、英語は名前呼びが一般的だ。
住所も日常ではあまり意識しないが面白い。日本語と英語は情報の全く順序が逆になる。
外国に荷物を送るとき、住所は番地から書くのだ。
もしそういう機会があったらと都道府県から書かないように注意してほしい。
他にもあるこのような例と初めに述べたWhyとWhatの話からひとつ言えることがある。
それは、全般的に日本的思考は演繹的で英語圏的思考は帰納的ということだ。
高校で習った言葉だが日常であまり使わないので簡単に意味をおさらいしておくと、
演繹は一般的かつ普遍的な言説を元に個々の事象を考える方法、
帰納は個々の事象を観察し、一般的な結論を考える方法である。
イメージとしては、大きな方から小さな方に向かっていくのが演繹法、
小さな方から大きな方に向かっていくのが帰納法である。
WhyやWhatの話にぴったり一致していることに気付くだろうか。
名前や住所の書き方の順序に一致していることに気付くだろうか。
演繹法と帰納法は,論理の展開法を大きく2つに分けるカテゴリ分けである。
そして日本的思考は言語や地域的な特性から大きく演繹的な思考に偏っている。
くせに注意して慎重に考えないと、50%の論理展開の可能性を捨ててしまう危険があるのだ。
「どうするのが一番いい?」
日常生活で何度も他人から聞き、自分も何度も口にしたことのある言葉である。
最高のものを求めるこの言葉は、ひとつ正しい答え(演繹法の前提となる一般的かつ普遍的な言説)があると仮定して、それを人から聞こうとしている質問だ。
この言葉は、個々の事象を見ないで魔法の公式を使って全ての答えを得ようとしているも同然だ。
個性が認められ個人化が進んでいる。
日本企業は動きが遅い、アメリカの企業は動きが早いという言説もよく聞く。
その理由の一端は、この魔法の公式にあるのではないだろうか。
僕は
「どうするのが一番いい?」
を
「この問題は一体なんですか?」
に変えてみることを提案したい。
問題が一体なんなのかの情報を集めて、対処法を考える。
これが帰納的思考を始める第一歩になるだろう。
「WhyをWhatに。」をキーワードに、明日の視野を少し広げてみよう。
魔法の公式探しはひと休み。
良い日曜日を。