#008 分かる
何年か前のこと、「Ph.D」という称号について話を聞いた。Ph.Dは博士号だ。
一般的には博士課程を設置している大学院で5年研究活動を重ね、規定の論文が認められたら得られる称号である。*1
そこまで聞いて、
「Dはその分野の専門家だからDoctor(博士)だな」
と納得した。
でも、「Ph」の部分はどういう意味なのだろう?
この話をしてくれた教授は詳しく教えてくれたが、ここではPhの詳細は少し後にしたい。
その前にあなたの専門、得意なこと、好きなことを思い浮かべて欲しい。
そして自分が「分かった」と返事する場面を何かひとつ思い出してみる。
「分かった」後にはきっと何か行動しているだろう。
「掃除しておいて」「分かった」ならあなたは掃除している。
「遊びに行こー」「分かった!」ならあなたは遊びに行っている。
「方程式から解の構築までの論理展開まとめといて」「...」なら...?
分かっていない。
分かっていないとは一体なんだろう。
一体何か不明な時は文字を見ればいい。
「分からない」のだ。
「分」を使った別の言葉を考えると、分類できない、分解できない、などだろうか。
掃除、は過去に体験のどれかに分類できるし、掃除という言葉だけで
雑巾やほうきという道具を使って汚れを落とすのだ
という分解ができる。
遊びも一緒だ。過去にいろんな遊びをしているから、待ち合わせすることや時間を決めること、掃除は遊びに入らないだろうというように過去の体験で分類できるし、行動が分解できる。
「方程式から解の構築までの論理展開まとめといて」
だけはこの文字通りにしか自分の中に残っていない。
過去の体験に分類して言い換えができない、行動に分解できない。
分かっていないは文字通り「分けることができていない」のだ。
となれば、これを分けられるようにしていくだけである。
色々試してみて、この言葉の要求を満たしているか確認する。
その試して確認したことを組み合わせた時、この言葉を実行できたことになる。
僕はこれを「理解する」と呼んでいる。
摩訶不思議な言葉を行動に分解し、その行動を組み合わせて摩訶不思議なことを自分ができるようになった。
これがまさに「理(ことわり)を解いた」ということだと思う。
このとき僕は真理に触れた感覚がする。
そして大学というものの存在や、プラトンやアリストテレスなど過去の哲学者が同時に現代でいう科学も行なっていたことを思い出す。
人は理解のプロセスを通じて物事が分かるようになり、真理というものがあると確信する。
#006幸せになりたいでは心理、物理、生物でよく使われるウェーバー・フェヒナーの法則と順応、経済学用語である限界効果逓減の法則は結局よく似たことを言っている、という話を書いた。
他にもこのような事例はたくさんある。ある分野で当然のアイディアが他の分野では新発見ということもよくある。
複数のものごとが協働することで、単独の時より効果を発揮することをシナジーという。
英語で書くとsynergyでsynchronize(同期する)+energy(エネルギー)だろうと予測できる。
専門化され分野が分かれていることも、奥底の真理のようなものでつながっている部分がある。だからそれどれの分野のエネルギーがうまく同期すれば効果が倍増する。
そして専門化された各人は別分野にも自分の考えが通じる部分があることを知る。
つまり、訳も分からず理解してきたそのプロセスを使って全く別のことをすっと分かった気持ちになる。これがアナロジーである。専門という縦の深堀りをすることで、いつの間にか同じような掘り方で横にも広げていけるのだ。
Ph.Dとはなにか、という話を冒頭で書いた。
Ph部分の答え合わせはここまでの話で済んでいる。
Philosophy(哲学)である。
ある専門の物事を分かる、理解するプロセスを重ね、そのアナロジーによってあらゆることに精通する。そんなニュアンスがDoctor of Philosophy(Ph.D)には含まれているのだと考えている。
少し余談だが、実はパッチワーク仮説もこの発想が背後に潜んでいる。
こんなようなことを考えていたある日、
個人的であることと普遍的であることは相反しない。個人的でありつつ普遍的である。
と米津玄師が言っているラジオを聞いて感銘を受け、ますます彼が好きになった。
Ph.Dがわかったところでようやくある種の本題になる。
それは社会的なポジションの話だ。
現代は専門化細分化が進み、個人個人が自分のポジションを強く意識しているように感じる。
でも敢えてポジションを意識しない時間があってもいいと思う。
そんな時間がシナジー効果を巻き起こすためだ。
ポシションは型だ。型を外してただ考えたことをだらっと話すのも楽しい。
そこで話したことを現実に実行しようとしたら、アイデアは分かるのに実行は難しいということがよく起こる。そんな時は自分の型でまず試して、無理なら他の人の型を真似たり聞いたりすれば良い。
僕自身も最近、自分の専門外の人と一緒にプロジェクトを進める機会が多くなった。
お互いにお互いを知ろうすれば、初めは相手の型を分かろうとしたり、逆にこちらを勘違いされないか不安になったりする。
僕はなんとかこの考えを伝えたい。
分かると言っていても、裏では自分の分かるでいいのか不安であること。
考えがわかることと実行ができることは別だとわきまえていること。
あなた自身の分かるがもっと知りたいし、自分の分かると合わせてシナジーを起こしていきたいこと。
言葉や行動でどうやって伝えていこうか。
幸い次の月曜日はGW。
さらに次の月曜日までにじっくりこの件に備えよう。
良い日曜日を。
#007サイコロの振りどき
新年度が始まって半月と少し経った。
新しいライフステージに立つ、去年度から一つ進む。
変化の時期だ。
新しい環境に少し慣れ始める。
そこでの自分の立ち振る舞いが見えてくる頃かもしれない。
この道に進んでよかった。
この道ちょっと向いてなかったかも。
いろんな感情が渦巻くのがこの時期。
両方の場合に関して
「なんでこの道を選んだか?」
という種の問いを自分の中でする。
今日はこの「なんで」に関する話をしようと思う。
今日はいい日、今日は悪い日。
1日の終わりにふわっと考える。
考えている時、無意識に頭には今日の出来事が広がっている。
これは無意識の「なんで」だ。
疲れたな、楽しかったな、その感情の理由を勝手に頭は探してくる。
仕事で書類をなくした、恋人に別れ話を持ちかけられた。
なんでこうなったんだ、どうしてこんなことに。
悪いことは、なんでなんでと頭をめぐる。
これは意識的な「なんで」だ。
自分が不快に思うことは理由を探したくなる。
理由なく不快なことや自分に危険が及ぶ世の中を認めてしまうと、気が狂ってしまうからだ。
人はいつでも「なんで」を探している。
理由があると気持ちがいい。
理由がない時もある。
サイコロを振る、くじをする、コインを投げる、ルーレットを回す。
そうやって決まった内容は「運」が理由になるので実行に移しやすい。
自分の意思を補強する道具にもこれらの運製造機は使われる。
ただ、サイコロは振る時を選ばないといけない。
今晩のご飯を決める、アイスの味を決める、そんな時はサイコロを振ろう。
進まなくてはいけないのに特に選べない。
自分の選択で選んだら失敗したときに怖い。
そんなときにはサイコロは振ってはいけない。
自分以外から作られた理由はすごく楽だ。
ついついサイコロを振りたくなる。
ついつい家族や恋人を理由にしてしまう。
でも僕はそれをしたらいつか大きなツケが回ってくるような気がしてならない。
人は物語の中で生きている。
物語は事件が起こってお話が進む「なんで」がある世界だ。
先日番外編でパッチーワーク化を少し具体化して書いた。
その中で
「仕事の自分は面白さ多めにして、腹黒さはアクセント程度にしておこう」
「家での自分は面白さとかいらないから食べるの好きなとこと寝るの好きなとこで埋め尽くそう」
のように自分の中の性質を振り分けて場面場面の自分を作ればいいという話を書いた。
これは場面場面で理由を作るということにつながっている。
仕事はこういう内容だからこの性質を重視しよう。
家はゆっくりして自分を休めるためにこの性質を重視しよう。
作り上げた自分の中の自分と環境がバッチリ合えば、その環境での自分の行動にも理由がついてくる。
しっかり意見を言う自分を大きめに持ってるから、頑張って意見を言ってみよう。
人見知りな自分を抑えているから、勇気を持って話しかけてみよう。
理由があれば人は動ける。
大切なことは無理をしすぎないことだ。
自分にない性質を組み合わせすぎるとストレスがかかる。
自分を見つめてその範囲で作っていけばいい。
人は理由の呪縛から逃れることはできないけれど、
理由という武器を持っているとも言える。
どうやって使うかはその両面の性質に気づいた自分が決めてまた月曜日を生きればいい。
良い日曜日を。
パッチワーク化(分人化)とは複数のものさしをもつこと
自己の中の複数の自己を見出して幸せをコントロールしよう。
という内容をこの日曜日には書いた。
自分を1つのアイデンティティの連続体だと無意識に捉えることで、辛くなる場面というのは結構ある。
それは人が基本的に因果律に支配されて、もっと簡単にいうとすべての出来事に理由をつけて物語的に情報を処理しているからだと思う。
物語化するためには無意識に主人公である自分は一人になってしまうだろう。
しかし、実際はそうじゃない捉え方をした方が色々「得」なんじゃない?という主張を僕はしている。
ただ、実際に自分をパッチワーク化するのはなかなか難しい。
実態としての、物理的な自分はこの世に一人しかいないから難しいのだ。
だから言葉が大事だと考えている。
名前の力というこの本編はそういうことである。
言葉を使えば自分の中の特性をパック化できる。
優しい、好奇心旺盛、食べるの好き、寝るの好き、絵が好き、歌うのうまい...
なんでもいいがとにかく言葉化することで自分の中身を分けることができる。
もっと明確化したければ点数化してもいい。
面白さ:10点
腹黒さ:50点
好奇心:35点
みたいに点数をつけようとすると本当の自分が見える気がしてくる。
これが複数のものさしである。
自分を分化した特性のそれぞれに点数をつける。
それらを使って自らをパッチワーク化していけば良い。
「仕事の自分は面白さ多めにして、腹黒さはアクセント程度にしておこう」
とか
「家での自分は面白さとかいらないから食べるの好きなとこと寝るの好きなとこで埋め尽くそう」
とかそんな風に自分の中の自分を作っていく。
そうやっていると、いつの間にか全体としての自分は前より明るく元気になっていたりするのだ。
週半ば、後半も頑張ろう。
松山朋治
#006幸せになりたい
気分が沈んでいる時、幸せになりたいと思う。
幸せな時、この幸せがずっと続けばいいのにと思う。
ずっと続く幸せってなんだろう。
忙しい日々の中、時が止まったような日曜日にそんなことを考える。
幸せは多くの人が追い求めるものだろう。
恋人がいる、仕事で成功する、友達と遊ぶ、家族と過ごす…
幸せの瞬間は人生でたくさんある。
恋人がいる、仕事で成功する、友達と遊ぶ、家族と過ごす…
気分が沈む原因になることも人生にたくさんある。
多くのことは幸せと不幸せが表裏一体になっている。
その理由を考えていると、ずっと続く幸せの正体が見えてきた。
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#004追い求む先に何があるのか
「でもさ、やっぱハイスペックがいいよね。」
一緒にお酒を飲んでいた友人が言った。
彼は一般的に見て十分にハイスペックだ。ルックスも頭脳も性格も、全てが確実に並より上だという感じを受ける。
そんな彼でも悩みはあるのだという。慢心しない彼は本当に格好いい。
そんな彼に僕は尋ねてみた。
「確かにハイスペックいいなってずっと僕も思ってるけど、目指してるハイスペックってどんなの?」
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