月曜に備えて

噛みしめた結果です.

同じ行動で別のものを感じる

GW、気付けば実家漬けになっている。

人との約束をしないようにしたので少し遠い一人暮らしに帰る理由もないのだ。

 

地元の友と飲みに行ったりはする。

人生これからどうするかなんて日本酒を呷りながら話していると、よっぽど歳をとったように感じる。

幸せな将来とか、夢とかそんなことを聞く。

 

仕事の話をすると「昇進」とか「年収」とか「仕事内容」の話をよく聞く。

でも個人的に一番知りたいのは「人間」とそれに関わる「システム」である。

知りたい理由は簡単で、それが一番幸せみたいなものに関わると思うからだ。

 

利己的なことと利他的なことは成功と結びつけてよく語られる。

利己的な性質はある面では仕事ができるように見え、強いリーダー的感覚を他人に覚えさせる。一方で、利他的な性質は下手をすると良いように遣われるという感覚やなんとなく立場が弱い人、力無い人を連想させる。

 

しかし、逆も然り。

利己的な面が弱さの露呈に感じられることも、利他的な面があまりある力の賜物だと感じられることもある。今は初めに利己を良く利他を悪く、後からその逆もあると書いたがどちらが一般的であるとかはこの文脈で定義する気は無い。

 

利己的な人は他人を貶めたとしても自分が得をする行動をとる。

行いには「良いこと」「悪いこと」「皆がやっていること」の三つがある

エリック・バーカー『残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する』より

皆が利己的な行動をとれば、それは幸せを生み出すシステム自体の破壊につながる。

 

利己的なことを突き詰めた国はモルドバだという。

幸福度ランキングではワーストランクに位置するらしい。

個人個人は優しい人も利他的な人ももちろんいると思う。

しかし利己化が進みすぎると国レベルで幸福を生み出すシステムが破壊されてしまうということなのかもしれない。

 

***

 

一人暮らしでご飯を食べる。

フライパンや鍋などの調理具、盛り付けた皿、水を入れたコップに箸やスプーン。

シンクに積み重なったそれらを放置するわけにもいかず洗う。つらい。

 

今日は実家で祖母と母が畑で農作業をしているのを自室から見た。

その作業をする前、一緒にコーヒーを飲んでいたのでもしやと思って台所に向かうとシンクにはカップがつけてあった。

 

農作業をして、洗い物をして、掃除をして、ご飯を作って。

それを思うとちょっとしたこのカップを洗う手間くらい減らそうと思った。

洗い物をしているのは一緒のことなのに、一人暮らしで洗い物をするときとは全く逆の気持ちになった。

 

 

先ほど引用した本によると「成功」の分布で最下位にいる人は利他的なgiverだという。

やっぱり利他的なのは良いように遣われるのがオチなのか、というとそうでは無い。

最も成功している人もまた利他的なgiverなのだ。

 

この種の話は聞いてるだけではああそうかと思うだけ、人によってはこんな話を信じて自分に当てはまってるかなぁなんて考えてバカじゃ無いのかと見下す。

 

でもちょっとは人のためになるかな、という想いを持てること、そういった想いに意味があると信じられることが結果的に成功や幸せと呼べるものなんじゃないかと、少なくとも僕自身はそう信じている。